9月29日(木)阪神タイガース2年ぶりの優勝。“強い阪神”を見て、驚きました。
《2005.9.29〜30》
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※9月28日以前の日記は、前ページに掲載
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午前中は、地元・大泉中学校の体育大会を見学。事務所に戻って、「都市政治研究所ニュース・レター」の印刷や、来週からの街頭活動で配る「議員活動報告」の作成にかかりました。
ところで、今回の堺市長選挙の候補者の中には、私がカムバックに挑んだ市議選の折、たいへんお世話になった人がいます。立候補に当たって相談に見えたとき、どちらかと言うと消極的な進言をしたつもりだったのに、ご本人の意思は固かったようです。遅くなったのですが、陣中見舞いに事務所を訪ねました。
さて、その帰り道、別の某候補の「確認団体カー」が交差点で私の車の前に割り込んできて、しばらく後ろに付いて走る格好になりました。市長選挙では「確認団体の政治活動」ができるのですが、正規の「選挙カー」と異なって、活動内容が制限されています。ところが、助手席に某党の現職市議を乗せたこの「政治活動用自動車」は、公選法上で許されない候補者名の連呼をやっています。また、別の違法状況も目撃したので、たまたま持ち合わせていた記録機材にこれらの証拠を残しました。やがて連呼をやめ、認められている「政策宣伝」に変えたのは、追い越さずにしつこくお尻にくっついている私の車が気になったのでしょう。
市川房枝さんが亡くなられる前、理想選挙を追求する市民グループが選挙違反を監視する活動をしていました。なりふり構わないこの陣営の候補者名と現認した違法状況は、堺市選挙管理委員会に通報しました。また、選挙期間が終わったら公表します。
9月30日(金)朝、顔を合わた人たちと握手。タイガース“V5”の余韻が続きます。
きょうは、金岡北中の体育大会。競技する生徒たちに熱烈な拍手と声援を送る校長先生の姿が印象的でした。午後は市役所で、環境事業部などからヒアリング。
ところで今夜は、かつて社青同社会党を経て社民連の活動家だった川島慶造さんの出版をお祝いする会が開かれ、参加しました。1933年生まれの川島さんは実に面倒見のよい方で、同じ政党の系譜に属さない私の選挙にもしばしば力を貸して下さいました。今回上梓された「輝いた日々」は、大阪市港区での住宅建て替え運動の体験などを著したもの。参加型市民運動の先駆けともなった興味深い記録です。また、きょうの集いへの出席者は、かつて大阪の労働界を担ったそうそうたるメンバーが揃ったほか、私の隣席は、遠く山形県長井市から駆け付けて来られた目黒栄樹市長。川島さんの活動の幅の広さが窺えます。
なお、列席されたオールド活動家の面々のお話しはぞれぞれに興味深く、皆さんがいまも社会や政治の動きに鋭い批判精神を持ち続けておられることが伝わってくるものでした。例えば、総評大阪地評の議長も務められた岡本知明さんは、「近頃、労働組合の“役員”はたくさん居るが、“活動家”が減ってしまった」と嘆いておられました。
余談ですが、川島さんの本を読んでいて、以前からいくつかの接点があったことに気づきました。まず、川島さんが港区で被災した1950年のジェ−ン台風は、私が当時(小学校3年生)住んでいた此花区(港区の西隣)にも大きな被害をもたらし、何日間か、床上浸水された家の2階で暮らしました。また、川島さんらの大阪市営住宅建て替え運動が実り始めたころ、私は開発間もない堺市の新金岡団地に入居し、仲間たちと住環境の整備や「こんにちは!」新聞の発行など、参加型市民運動に取り組みました。さらに、川島さんの運動に注目し、この本に推薦文を寄せられた東大名誉教授の篠原一先生には、私たちが政治倫理条例の制定運動を起こした折に指導を受け、拙著「市政と政治がこんなに変わる」の出版に際しても推薦の言葉をいただいています。8歳年上になる川島さんの後を追いかけるように生きて来たわけですが、いまなお未来へのたたかいを続けられる川島さんに、あらためて学ぶことしきりです。