長谷川俊英14年の市会議員活動 (0ページ)
前史……もう、32年前のはなしです。
超過密マンモス団地に生まれた、「こんにちは!」新聞
結婚して1年後、新しい所帯を持つことになった堺市の新金岡団地は、およそ1キロ四方に3万5千人、1万2500世帯が暮らすという超過密団地。高度成長の人材確保と「100万工業都市」をめざした無計画なまちづくりの結果でした。とにかく、人と人との出会いをつくり、この「まち」のことを知りたい…そんな思いから仲間を募り、地域ミニコミ「こんにちは!」(月刊・全戸配布)を創刊しました。
公益施設の整備が遅れた団地では、中学校は1学年が27クラスという日本一のマンモス校、保育所や商業施設も不足。もちろん図書館などありません。「こんにちは!」で呼びかけ、共同保育や共同購入、こども文庫、空き地を使っての“わんぱくキャンプ”などなど、自主的な市民活動が始まりました。そして図書館の建設運動も…。
やがて、こんなええかげんなことをやっている“地方政治”に目が向き、自分たちの代表を議会に送ろうやないかと、話がまとまりました。そして、学校勤めで時間がとれそうな私が、候補者役を引き受けた次第です。
楽しくやった選挙運動
出たい人より出したい人を…“ただの市民”の理想選挙
実は、最初のチャレンジは、あとわずかで次々点でした。話が伝わった市川房枝さんの推薦もあって、2回目の選挙で初当選。もちろん選挙運動はボランティアの市民たちが手弁当でやり、資金は1口100円のカンパでまかないました。「みんなで楽しく…」を合い言葉に、政党・労組などの組織候補、強力な地盤を誇る地縁候補しか居なかった市議会に、風穴を空けました。でも、しんどかった。
税金での海外“遊興”旅行はあきまへん!
最初に出てきた「海外視察」、住民運動と議会内論争で中止へ。
初めて議会に出て行った1979年は、いまほど日本人の海外旅行も盛んではありませんでした。前年まで財政難でやめていた「海外視察」を再開したいと、当選後の議員たちが言い始めました。「一生に一度」の海外旅行に、市民の税金を使って行きたい…というのですから、これほど特権意識丸出しの話はありません。
議長から、「4年間の任期中に君も行かせてあげるから賛成してくれ」と言われ、最初の年の計画を聞いたら、行き先はなんと、グランドキャニオンラスベガス。まるで市民感情を逆なでするような内容です。
もちろん「賛成できない」と答え、この計画をつぶすのが初仕事となりました。最初から波風を立てての議会での大論争。福祉関係団体からは、「その予算を障害者用バスに回して下さい」との陳情も出てきました。そして、私を議会に送り出した市民らがつくった「堺市政に参加する住民の会」が住民監査請求や住民訴訟を行うなど、ありとあらゆる手を使って反対運動を続けました。
しかし、議会内での抵抗勢力は52分の1です。2年間は強引に実施。しかし、市民批判が高まり、参加者の大半が引退予定議員となって、選挙を控えた4年目から中止になりました。
※実は11年後、堺市議会の海外視察は全国の注目を集めて復活します。仕掛け人は、「住民の会」のメンバーたち。このお話しは、4ページに掲載しています。
(次ページにつづく)
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