阪神淡路大震災から30年。昨年元旦の能登半島地震直後、尼崎市在住の俳人・木割大雄さんが送って下さった句を改めてかみしめています。木割さんと知り合ったのは、1992年に大問題となった尼崎市議たちのカラ出張事件を巡って神戸新聞が主催した座談会でした。以来親しくしていただいているのですが、この句に込められた阪神淡路での木割さんご自身のおののきと、能登半島被災者に寄り添う思いを感じました。
1995年1月17日未明、私は当時住んでいた新金岡団地の集合住宅4階で激しい揺れ(震度4)に飛び起き、タンスを押さえながら家族に大声で呼びかけました。その日の手帳には、復職中の桃山学院本部があった昭和町学舎までバイクで出勤(地下鉄は運休)したと記録しています。
午前中、暖かい陽射しに誘われ、大泉緑地をゆっくり歩きました。梅のつぼみが開花に向けて懸命に育っています。また、大泉池の水面には岸から離れて悠然と浮かぶユリカモメが2羽。先日とは異なる群が飛来しているのでしょうか。コガモ、オオバン、カイツブリなどの姿も見られます。午後は、事務所で市民相談。