《2021.2.1》
(2422)

※1月31日以前の日記は、前ページに掲載

学生時代からの友人で、「職業革命家」を自称していた小寺山康雄さんの訃報に接したのは昨年の春でした。2月19日に逝去し、21日に家族と少人数の友人で見送ったとのこと。「俺の葬式の必要はない」との遺志だったそうです。その知らせは、「追悼集」への寄稿依頼と共に届き、このほど『激流に棹さして-想うがままに』(小寺山康雄追想・遺稿集)が刊行されました。
小寺山さんは1960年に神戸大学に入学。私も同年に立命館大学に入学し、それぞれの地で60年安保闘争にかかわりました。卒業後、私は桃山学院大学に就職するという平穏な道を歩みましたが、彼は政治団体「統一社会主義同盟」の幹部(後に除名)などを務め、一貫して社会・政治運動に身を置いてきました。私が寄せた「事務所に座ってくれているだけでいい!」と題する一文は、1993年の総選挙に挑んだ折、「俺は何したらええんや」と気遣ってかかってきた電話への返事から書き起こしています。

月1(月)2.5℃~15.0℃。気温はさらに上がりました。ほぼ曇り空で、夕方から雨に。

●学生時代からの厚い友情
神戸と京都という別々の地にいながら、いくつかの場面で共に行動したことがあります。当時の学生運動は、関西では「社学同」(ブント)と「統社同」(フロント)という政治団体がリーダーシップをとっており、京都府学連では委員長(京大・社学同)、副委員長(立命館大・統社同)、書記長(同志社大・社学同)と役職を分け合っていました。その京都府学連委員長だった清田祐一郎さんが69歳で亡くなった2006年、小寺山さんが次のような追悼文を書いています。
----------------------------------------------------------------------------
ぼくが清田と初めて出会ったのは大管法闘争の真只中である。60年安保闘争後、学生運動は沈滞し、全国学生自治会連合(全学連)も機能停止していたばかりか、主導権をめぐる不毛の対立を繰り返し、全学連とその傘下の自治会は四分五裂していた。そうした中で京都、大阪、兵庫の関西三府県学連は自治会機能も健在で、デモ参加者数は60年安保闘争時と比べてもさして落ち込んでいなかった。
当時、ぼくらは前年に共産党を離脱し、統一社会主義同盟(統社同。学生組織はフロント)を結成していたが、ぼくは統社同の全国委員、学生部長、兵庫県学連の委員長であった。その頃、清田から「相談したいことがある」と呼び出しを受けたのである。
市民派議員のパイオニアとして、今も堺市で頑張っている長谷川俊英(当時、立命館大学学友会執行委員長)とともに、ぼくは清田が指定した同志社大学構内の彼らのアジトに出かけていった。アジトに入ると、ぼくと長谷川の周囲を、当時の学生運動用語で「暴力装置」と称していた体育会系の屈強な男数人が取り囲み、いきなりボス交(ボス同士の交渉)に入ろうとするではないか(まず相手を威嚇したうえで、ボス交と称する折衝をやるのが、ブンド特有の手法だった)。これには長谷川が怒って「こいつら(暴力装置)を部屋から出せ。出さなんだらワシらは帰るぞ」と、一喝した。「暴力装置」どもは色をなしたが、清田は「わかった。出ていかすから話しあいを続けよう」と、折れたのは当然といえば当然の礼儀だが、清田はブンドの中では話の通じる男であることをこのとき知った。
(『現代の理論』06夏号Vol.8「想うがままに」から抜粋)
----------------------------------------------------------------------------
私の記憶からはほとんど薄らいでいる出来事ですが、確かに清田氏は心を許せる相手でした。同時代に生き、共に闘った同志たちの永遠の旅立ちを心から悼みます。

「アクション日記」月別インデックスへ