8月11日(月)まさに「台風一過で、よく晴れました。しかし、各地に相当の被害が…
全国で「死者9人、行方不明2人」と報じられている台風11号の被害は、深刻な爪痕を残した地域もありました。堺市危機管理センターのまとめによると、本市では負傷者1人と、南区でブロック塀一部倒壊があったほか、道路冠水や法面崩壊、倒木、看板落下、街灯倒れなどの被害があったとか。また、開設した避難所は最大時109か所で、避難者数は42人。動員した職員数は425人だったそうです。
ともあれ、身近に大きな被害がなかったことに一安心して、兵庫県明石市のお寺にあるお墓の掃除に出かけました。ところが中国道が大渋滞。渋滞を避けて吹田から一般道で宝塚インターを目指したのですが、こちらもさらに厳しい渋滞でした。往路に5時間をかけ、帰りも中国道の渋滞で3時間。久しぶりの長時間ドライブとなりました。
その間、明日に予定していた「議員活動報告」の発送作業のためにボランティアの方が来てくださったと事務所のスタッフから連絡があって、大恐縮です。戻って来ると、お陰で作業はかなり進んでいました。
ところで、最近、「千曲川のほとりで〜私の学童疎開・上山田ホテル」という絵本に出会いました。日本で最初に東京・世田谷で開校した肢体不自由児のための学校(光明国民学校=現・都立光明特別支援学校)の児童たちの学童疎開に参加した著者(今西美奈子さん)が、その体験を絵本に残したいとして書かれたもの。絵は金山崇さんの作品です。本土空襲に備え、時の政府は大都市の学童疎開を進めました。しかし、その目的は「将来の戦力保持」でした。したがって、「戦力外」とされた障害児はその対象とならずに放置。やむを得ず、校庭に防空壕を掘って学校で共同生活を送りながら、校長先生が疎開先探しに奔走。長野県千曲市の上山田ホテルへの疎開を実現した10日後、世田谷の校舎は空襲で焼け落ちたそうです。「障がい児・者には人権といえるものがなかった時代の戦前、戦中、戦後に子供時代を過ごした者のひとりとして…」と、著者はあとがきに記しています。
午前中、ご相談事項に関する情報を得るため、土木部の北部整備事務所に赴き、昼前に登庁。危機管理室の報告や、財政部から8月議会に提案する議案の説明を受けました。その後、市立中学校の体操服指定をめぐって当該校校長や市教委担当課から事情聴取。
なお、この絵本は、発行所「まごころの集い社」のホームページから入手できます。
また、NHK・ETV特集「“戦闘配置”されず〜肢体不自由児たちの学童疎開〜」が、当時の状況を詳しく報道しています。8月16日(土)午前0時(金曜深夜)から再放送。
「議員活動報告」の発送作業のため、朝からボランティアの方々が来てくださいました。昨日に進んでいたこともあって午前中に終了。午後からスタッフが点検して、明日には発送できそうです。ありがとうございました。そんなわけで、ほぼ一日事務所で仕事。午後遅くなってから大阪市営南霊園の阿倍野墓地にある父方親族のお墓に参りました。なお、事務所に戻ると、来客が2組みあって、懇談と相談。
8月12日(火)未明から朝まで雨。その後も曇り空で、最高気温も28.6℃とやや低め…