陽子線照射は36回目です。いよいよ来週(月、火、水)3回の治療を残すだけになりました。
今日は、菅直人首相が退陣表明をするというので、トレーニングジムを休み、病室のテレビでその模様を見ていました。民主党両院議員総会での菅さんの挨拶は…
@党内事情やねじれ国会など環境は厳しかったが、やるべきことはやった。A新しい代表を選ぶなかで国民に信頼される党になり、また、ひとつの方向性を出したときはみんなで進めていく党にしてほしい。B退任後も、原発に頼らなくてもやっていける社会の実現をめざして、一政治家、一市民としてやっていきたい。
そんな内容の菅さんの話を聞きながら、支持率低下と「やめろ、やめろ」の四面楚歌の中、政権を維持してきた精神力を、古い友人としてねぎらいたいと思いました。厚生大臣当時に会った折、「長谷川さん、官邸を握るってすごいことですよ」と、菅さんは言いました。自分が辞めた後の小沢政治の復権、原子力村の巻き返しを考えれば、権力を手放さずにがんばれるだけがんばろうとしたのだと、私は推察していました。もっとも、「脱原発依存」をはじめ、期待された政策に対して中途半端であったことは否めません。きっと反対勢力の厳しい包囲網があったのでしょう。退任後「一市民としてやっていく」と挨拶を結んだ菅さんに、また期待をしようとも思いました。
■私が菅直人さんとはじめて会ったのは、1976年の8月。菅さん29歳、私は34歳でした。同年2月に発覚したロッキード事件で7月に田中角栄元首相が逮捕され、日本中に金権政治への怒りが渦巻いていました。その2年前に市川房枝さんを担いで参議院選挙の事務局長を務めていた菅さんは、「批判するだけではダメ、自分たち自身が参加して政治を変えるべきではないか」と考え、自民党型の金権選挙ではない新しい選挙スタイルのモデルをつくり、「東京と大阪で三、四人ずつ出そうか」(菅直人『日本大転換』光文社、1996年)と思いたって、堺市で地域住民活動をしていた私を訪ねてきてくれたのです。若者仲間と一緒にわが家に泊まった菅さんと一晩語り明かしましたが、私の考えは、地方政治を通して菅さんと同じ思いを実現するということでした。結局、その年12月の衆院選には菅さん一人が立候補しました。
35回目の陽子線治療を受けました。残りは4回となり、最終日の31日に退院する予定です。なお、粒子線医療センターでは、私の治療が終わった後で照射装置にトラブルがあったそうです。私よりも少し遅く隣室に入院されたFさん(奈良県の方)は、復旧めどが立たないためにいったん病院に戻り、再度出かけて治療を受けられたとか。「病院の夕食に間に合わなくなり、相生駅前で食事を済ませ、いま帰ったばかりです」と話してくださったのは、午後7時ごろでした。
8月25日(木)あちこちに大雨警報が出ました。相生でも断続的に激しい雨です。
▲写真左=今日、民主党両院議員総会で「退陣」を「正式表明」した菅直人首相。(NHKテレビの中継画面から)
▲写真中=市川房枝さんのお別れ会の後、路上での立ち話。菅さん34歳、長谷川39歳のときです。(1981.2.1)
▲写真右=団塊世代の社会参加をめざす運動として取り組んだ「団塊塾」…軽井沢での合宿風景。(2006.7.29)
8月26日(金)ほんの少し雨粒を感じましたが、ほぼ夏空が回復し、最高気温も32℃。
ところで今日は、堺市議会8月定例会の開会日。午後1時から初日の本会議が開かれたのですが、治療中のため、やむなく欠席通知を出しました。病室でインターネット中継の提案理由説明を聞きながら、事務局から送ってもらった議案書をチェック。とはいえ、パソコンに写る議場の自席(画面右端最前列)が空いているのは複雑な思いです。長年の議員生活で、本会議を休むのは初めてのことだったと思います。