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《2010.9.1〜2》

9月1日(水)連日の猛暑のせいでしょうか。フウセンカズラが例年よりも伸びています。

今日は、一日中事務所で大綱質疑に向けての調査や依頼されている原稿執筆に没頭。昨日通告した質問項目について、答弁内容を連絡してきた担当課長もありました。
さて、菅首相と小沢前幹事長の一騎打ちとなった民主党の代表選。直前まで、鳩山前首相に妥協の仲介を促したとも思える小沢氏の行動背景は何だったのか…。毎日新聞学芸部長の経歴もある旧友の田中良太さんが、「あさひかわ新聞」(8月31日)のコラムに、「民主党代表選がカネの争いになった!」と題して、次のような文章を書いています。

今日から3日間は大綱質疑の本会議です。第1日目の質問者は、公明党、民主党、共産党、大阪維新の会、クリエイティブフェニックスの各会派代表。補正予算が提出されている「阪堺線の存続支援」については、ほぼ全会派が取り上げましたが、対応への迷いが見られます。
また、竹山市長が唱える「堺都市州構想」について、維新の会代表が激しい語調で批判しました。これに対して市長は、「それなら、大阪都構想の下で堺をどうするのか、維新の会堺市議団の見解を示せ」と逆襲。すかさず私は、「市長の反問権を認めよう。明解な答弁を…」とヤジを入れたのですが、議論は発展しませんでした。ともあれ、橋下知事の全面的バックアップで当選した市長と、市長選で対立しながらその知事の下にはせ参じている堺市議たちとの奇妙(微妙?)な関係に注目すべきかもしれません。
ところが、その次に質問に立ったクリエイティブフェニックス代表の発言は意外でした。「堺都市州に賛成。竹山市長は、堺から南の首長をとりまとめるリーダーシップを発揮してほしい」…もはや竹山与党になったかと思えるような持ち上げようです。果たして会派全員の一致した見解なのか…。少し疑わしくはありますが、大綱質疑は「会派を代表しての質問」です。

9月2日(木)堺市役所の周辺では、お昼に雨のぱらつきがありました。猛暑もやや・・・?

小沢には「前科」がある。1997年12月18日投票の新進党首選で鹿野道彦(元総務庁長官)を破って当選、党首に就任した直後、自ら新進党を解党してしまった。新進党両院議員総会での解党決議は27日。「党首選に勝って解党」という行動は「不可解」と評されたが、小沢にとっては「事前に決意を固めていた」当然の選択だった。新進党は94年12月、国会議員214人で結党。初代党首は海部俊樹で、小沢は幹事長だった。小沢は96年1月の代表選に立候補して当選、代表に転じた。しかし年間90億円を超える国の政党助成金は、小沢が握り続けた。
自民党では党のカネを握るのは幹事長と決まっている。ところが新進党では、幹事長のときも代表に転じてからも、小沢が握っていた。97年末の代表選を前に、新進党内でこの「小沢とカネ」問題論議が強まり、公明党系議員らが「改革」を求めていた。「代表になっても、政党助成金を握れないのでは何のメリットもない」というのが小沢の判断。だから新進党解党を選んだのだ。
小沢の自由党は衆院36人、参院10人の合計46人でスタートした。解党時の新進党は173人だったから、その5分の1強にすぎない。それでもゼロよりはマシだ…。解党によって小沢は、手中にできる政党助成金を小規模ながら確保したのである。2003年9月、当時の民主党(菅党首)と自由党(小沢党首)による「民由合併」が成立した。小沢はその後、代表・幹事長・選挙担当副代表などとして政党助成金など「民主党のカネ」を握り続けてきた。
前代表(首相)の鳩山由紀夫が菅に「挙党体制づくり」を勧告したといわれるが、じっさいには「小沢にカネを握らせてやれ」というアドバイスだった。菅はそれを断り、「党のカネを自分のポケットマネーのように見せかけて、新人議員に恩を売るようなことは許されない」と言ったとも報道された。一皮むけば、代表選で争われるのは、「民主党のカネは誰のものになるか?」なのである。 
菅は「民主党のカネは小沢のカネ」というあり方を許さない姿勢を崩さない。だからこそ小沢は代表選立候補に追い込まれた。もちろん勝算はない。敗北のときは、かつての自由党のような「小沢独裁政党」をつくり、民主党と自民党の間で、得意の政界遊泳術を発揮する以外にない…。小沢の立場はよく分かるが、あまりに醜悪にすぎる。

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